ちょっとこのところ世間を賑わせている“体罰”について。
体罰に限らず、いわゆる「厳しい指導」というヤツは、相手の性格を充分に見極めた上でやらないと、効果が上がらないどころか、その相手を その道から逃げ出させることにつながります。それは双方にとって とても不幸なことです。
その性格を見極めるのが非常に難しいところで、それが上手く出来るなら誰も苦労はしない、才能の無いヤツを早く篩い落とすのも指導者の仕事だ、と言われてしまいそうですが、厳しい指導から脱落する人が 皆 才能が無い人だとは限りません。上手く才能を伸ばしてやれば活躍できたはずの人が、厳しい指導のために逃げて行ってるかもしれないのです。
おそらく、体罰を始めとした厳しい指導に走る人達は、それで成功した経験があるのでしょう。どんなに厳しくされても「なにくそ!」と歯を喰いしばって逃げずに付いてくる人も勿論います。その人は、時間が経つと大きく成長し、指導していた方も鼻が高くなることでしょう。しかし、だからと言って、全ての人にその指導法が必要だ、そうしなければ成長できないのだ、ということにはなりません。たまたま その指導法がその人に合っていただけなのです。
その厳しい指導法が合わない人にとっては、毎日が苦痛でしかありません。いつまで経っても成長している実感は得られず、そのうちに、自分には才能が無いのだと、辞めて行くことになります。でも、本当に才能が無かったのか、実は そう思い込まされただけだったのかは、もはや、誰にも分かりません。
僕自身が どちらかと言うと そういう性格の人だから、気持ちが良く分かるのです。そういう人が厳しい指導を受けると、事の本質を考える前に「殴られるのが嫌だ。どうしたら殴られずに済むだろう」ということを考え始めます。自分が向き合うべき物に向き合わず、指導者の顔色ばかり見るようになります。そんな考え方で物事が上達するはずが無い。そして、そうやって苦労して顔色を見ていても、殴られずに済むことは まず ありません。何故かと言うと、そのような指導法を採る人達は大抵、重要な点に絞って助言を与えることをせず、目に付いた細かいところ、もっと言えば、あまり本質的でない どうでもいいような間違いを逐一指摘して殴るからです。中には、単に「自分の考え方に合致してない」という理由で殴る人が居たりします。人によって考え方が違う問題でも、です。その結果、殴られる方は、いつもいつも上手く行っていない印象だけが残ります。自分は駄目なヤツだと思うようになります。いくら周りが「くじけるな」とか「前向きに考えろ」と根性論をぶったところで、そんなもの何の役にも立ちません。本人は、まさに八方ふさがりの精神状態で、どうしたら抜け出せるかが分からないからです。やがて、才能が無いと思わされて辞めて行きます。本当に才能が無いのかは、ついに分からないまま。
上達のためには厳しい指導が必要で、付いて来られないヤツは単なる根性なし、という主張は、一見 正しいように見えます。もしかしたら、伝統的に それで全て上手く回ってきた人たちも居るのかもしれません。しかし、いくら そう主張したところで、人はそれぞれ性格が違うという厳然たる事実は消えません。それは取りも直さず、合う指導法は人それぞれだということです。そんなこと いちいち考えて やっていられない。指導するべき相手は無数に居るのに、時間は限られているのだ。その気持ちは分かりますが、それじゃあ、指導の本質を置き去りにしたまま、ただ自分の考えを押し付けていれば良いのでしょうか。それは、各人に合った指導法を見付けようとして不完全になるよりも、なお一層、タチが悪い結果になると、僕は思います。